ライちゃん騒動記

2012.12

日本ペンクラブ会員 獣医学博士 鷲塚 貞長

「ライオンの、第二趾(人間の人差し指)の爪が異常に伸び、左右とも肉球に食い込み、とても痛そうで、びっこを曳き、一日中舐めています」「手術をお願いしたのですが・・」。

今年の夏、まだ6歳の若さで斃死したトラの、死因究明のための病理解剖(食道癌)や、時々の往診で、ご縁のある三重県南紀大内山動物園より、電話と共に映像が送られてきたのは、師走も半ばを過ぎたある日のことでした。

小雨の伊勢道を南下、紀勢線大内山インターより10分足らずで、大内山動物園に到着。

「遠路ご苦労様です」、山本園長が、厳つい顔に満面の笑みを湛えて迎えてくれた。

16歳の雌ライオンの“ライちゃん”は、狭い檻の中を、痛い前肢を引きずりながらもノッシノッシと歩いていた。

「3日ほど前から、攻め檻(内部が可動式に狭まり、猛獣を動けなくする治療用の檻)に慣らそうと、攻め檻を運度場の片隅に設置し、入り口を開放し、好物の鹿肉で誘導しているのですが、入りませんね・・。

「見慣れない攻め檻が加わったせいか、すっかり警戒して、扉が電動で上下する、この寝室檻に誘導するのがやっとでした・・・」。

飼育主任の安部さんが、「参ったなー」といった表情でつぶやいた。

「慎重で、警戒心が強いからね・・」「欲張りで、節操の無いホモサピエンスの様に、簡単に餌では釣られませんよ」「そうです、そうです」。

「体重は80kgくらいと電話で聞いていたが、130kg以上有るんじやないかな」雌ライオンの平均体重は、125~185kgですからね・・」「以前に体重100kgほどの、セントバーナードの胃捻転を手術したことがあるが、ライちゃんよりは遥かに小さかったからね」

メスの寿命は、飼育個体でも長くてせいぜい20年。しかしながらこの婆さんライオンはかくしゃくとしており、眼光鋭く、手の届く距離での迫力はなかなかのもの。

園長には少しは馴れており、頭などとうてい撫でられないが、鉄格子に体を摺り寄せてくる、「よしこの姿勢で鉄格子の間から注射しましょう」。

同じビッグキャットのトラは麻酔に弱く、呼吸停止に至る確率が高いが、ライオンではトラほどのリスクはない。

とはいえ推定体重での麻酔と、気道確保が容易でないので、少し控えめの投与から始めることとした。

麻酔薬の選定、応急処置等に関しては、内外の文献、国内の複数の動物園などより、情報を収集し万全を期したが、ライオンは麻酔に比較的安定とはいえ、野外に近い場所での施術のため、万一の呼吸停止を想定し、呼吸機能促進剤、気管チューブ(超大型犬用が、サイズとして応用できることは、今春のトラの当院内での剖検が役立った)、手動式人工呼吸器などを持参した。

「麻酔は大丈夫ですか…」「以前にある大学に、もう一頭のライオンの手術を依頼し、吹き矢で麻酔したら、1mほどの寝床から転落し、頭を強打して死んでことがあるので・・・」「ライオンは1m位の高さから落ちて、頭を打つたくらいで死にませんよ」「麻酔吹き矢は、簡単云えば、注射器を飛ばし、体に刺さった瞬間に一気に麻酔薬が注入される構造になっているので、刺さった部位により、事故が起きることがありますよ」「北海道の動物園でも、オオカミが吹き矢麻酔で死亡していますからね」「今日は檻の隙間から手を入れて、安全な部位に直接注入するので、大丈夫です」「そうですか・・・」。

園長はいかつい風貌とは反比例し、動物に対する繊細な愛情の持ち主なので、なかなか要求が厳しい。

先ずは、推定体重130kgの薬用量の3分の2の麻酔薬、続いて抗生物質を注入する。

日常診療のネコでは、飼い猫、野良ちゃんを問わず、上述の3剤ミックス麻酔では、5分程で体がふらつき、起立位から犬座姿勢へ、頭を左右に振り、眠そうな表情など、初動の薬物効果の発現がある。

5分経ったが、ライばあさんは涼しい顔で、何らの麻酔効果の兆候が無い。さらに5分ほど観察すると、巨体にややふらつきが見られたが、起立位は変わらず、相変わらず眼光は鋭い。
ケタミン塩酸塩は、作用時間が短いので、半麻酔状態での経過観察が長いと、覚醒が始まってしまう。

「薬用量が足らないなあーー」と、残りの三分の一の薬剤を注入する。
さらに3分程で、犬座姿勢(お座り)になり、眼光はややうつろ、そして横臥姿勢(横たわる)となる。

顔はうつむき姿勢にするので、この体形では、気管の内腔が狭まり、努力呼吸(無麻酔時での呼吸)ができない麻酔下では、十分に気道が確保されず、麻酔以前の問題で、窒息死してしまう。

「顔を上げて」「先生無理です、まだ噛み付きそうな顔してる・・・」、スタッフが悲鳴を上げる。「門歯に棒をかけ、下から顔を起す」「早くやれーー、死んじゃうぞーー」、段々とこちらも殺気立って来る。

門歯を支えて、頭を上げていた突っ支い棒が、少し外れた。

ライばあさんが、ゆっくりと、優しく棒を咬む。直径3cm強の樫の棒が、ポッキーを齧るように、いとも簡単に噛み切られた。

「ホー、なかなか手強いなー」。

完全に自由を奪う為に、さらに追加麻酔を行うことは、ケタミン塩酸塩には拮抗剤(薬剤を中和する薬)が無いので、万一呼吸停止の兆候が出た場合は、舌を掴み出し、強く引っ張り、口頭鏡で喉の奥の気管の開口部を確保し、気管チューブの挿管が不可欠になる。
もしこの時、自発呼吸が自然回復したら、施術者の手首は、樫の棒と同じ運命となる。

「動作は相当緩慢だな」「鉄格子を電動で少し上げ、手首にロープを架け、患部の手首だけを檻外に引き出すそう」。

手首にロープを架けようとするが、深麻酔ではないので、患部の疼痛がまだ皆無でなく、ロープ装着を嫌がり、手を引っ込める。しかし噛み付きに来る気力は、今の程度の麻酔深度で、どうにか攻撃行動は抑えられている。

「しっかりと顎を棒で持ち上げているんだぞー」、えーいと、大胆にかつ慎重に、檻の下から手を入れ、痛い患部の少し奥にロープを固定する。

大人2人で、渾身の力でロープを引っ張るが、婆さんの腕力は、2人力を超えている。やっとの思いで、先ずは右手を引き出す。

第二趾の爪は異常に伸び、湾曲し、肉球深く刺さり、出血し、化膿している。

「硬いねー」、刀匠鍛えの骨剪刀(骨切ハサミ)でも、過長爪の切断に歯が立たない。いろんな場合を想定し、用意した数々の外科器具の内、歯科用の線鋸が活躍した。

爪は線鋸であらかた切断、肉球より刺さった過長爪を抜き取り、爪の残部は骨剪刀で整形、創口を消毒する。

左手に同様の処置を施す頃には、ライちゃんの挙動は概ね安定してきた。やはり追加麻酔を行わなかったことは正解だった。かくして左右の患部に対する外科処置は終了した。

老齢であるので、事のついでにと、橈側皮静脈より、主要臓器の機能検査のための採血を行い、血液サンプルを持ち帰ることとした。

手術終了後10分ほどで、横臥姿勢のまま少し頭を上げるようになり、呼吸も安定している。さらに1時間ほどの観察で、体の動きが、徐々に回復する兆しが認められた。

師走の夕暮れが迫り、山間の大内山動物園では、南紀とはいえ気温が急速にて低下するので、保温に十分配慮し、伏臥姿勢に戻るまで、十分な観察を怠らないよう指示し、帰路に着いた。

明朝7時頃、携帯が鳴った。しばらくの沈黙の後、「ライちゃんが起き上がりません」、阿部主任が深刻な声で訴えた。「横臥のままですか」「いいえ、一度立ち上がりましたが、その後、伏臥姿勢のままです」「ロングアクティングの、鎮静剤効果がまだ持続中」「心配ない、心配ない」。

2時間ほどの後、阿部主任から再度の電話があり「今、水を飲み、生肉もぺろりと食べました。ご心配をお掛けしました」。

体重130キロを越える猛獣の外科処置は、平素の診療対象に比べ、また別の角度からの、かなりのパワーを要求される。

しかしながら、全力疾走した後のような、爽やかな気分が全身に注入された感があり、

“来年は、今年を凌駕する良い年になるぞーー”、との感触を得た。

 

” 肉球に深く食い込む“過長爪”。痛そう・・・・“

rai3このポジションでは、麻酔下では正常な呼吸ができず、窒息死の危険性が有る。

rai4手は檻から引き出したが、深麻酔でないので、すぐに引っ込める。

「ロープで手首を固定し、顎を上げ、そろそろ手術を始めるか」
rai5食い込んでいた、“過長爪”の一部