熟女“ライちゃん”2度目の手術

2014.5

日本ペンクラブ会員 獣医学博士 鷲塚 貞長

高速伊勢道の勢和インターを右折し、紀勢線に入る。
五月晴れの南紀の山肌の緑は柔らかく、所々に咲くツブラジイの淡い黄花の集塊が、新緑に斑状のアクセントをつけていた。

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山頂に岐阜城を頂く金華山は、5月に全山を埋め尽くすがごとくに咲く、ツブラジイの花の黄金色に、その名の由来があると伝えられている。

紀州は気候が温暖で、海山の幸に恵まれ、八代将軍吉宗も、将軍などという、一見華やかだが、気苦労の多い役職などにつかず、“紀州の殿様”で、その生涯を送っていれば、もっと気楽で、楽しい日々であっただろうに・・・・。

大内山インターを降り、宮川の支流大内山川に併進する、国道42号線をさらに西に向い、名古屋から約150kmの走行で、大内山動物園に到着する。

「おーいライちゃん、お久しぶり」「元気か・・」

狭い攻め檻の中のライちゃんは、1年半前に過長爪が3cmもパッドに食い込み、痛くて歩けなかったのを、手術で助けてもらったことなど、すっかり忘れ、「朝から狭いところに詰め込みおって」と、きわめてご機嫌が悪い。

「なにが元気か・・・だ」「手が痛くて歩けないんだよー」「さっさと治せ」と、こわーい顔でこちらを睨みつける。

ライちゃんの攻め檻がある小部屋と、鉄格子で仕切られた通路側の檻には、ピューマのピーちゃんが「何してるのーーー」と、時々こちらの様子を眺めに来る。

「先生、気をつけてくださいよ、時々手が出ますから」「おいおい、それを早く云ってよ」「もお・・・」

いくら人馴れをしていても、野生は野生、軽んじていると、とんだ事故につながる。

ともかく狭い場所で、野生の猛獣に、十分に手の出る鉄格子だけで囲まれ、油断も隙もない。

野生猛獣の麻酔は麻酔銃か、攻め檻で身動きを最小にし、直接注射するかのどちらかである。

平素、銃なぞにはおよそ縁のない獣医師が、麻酔銃のにわか射手では、極端な例では、縁の下に逃げ込んだ野猿に、至近距離で発射し、麻酔薬の入った注射器が体を貫通し、即死させた例もある。

麻酔薬の薬用量の調整がしやすく、最も安全な方法は、攻め檻による直接注射であるが、安全なのはライちゃんの方で、獣医師サイドには、相当な、思わぬ危険が伴う。

前回は、ライちゃんが見慣れない攻め檻を警戒し、誘導の為のおいしい牛肉に見向きもしなかったので、今回は、かなりの日にちを掛けて警戒心を解いて、うまく攻め檻への誘導に成功し、拘束したが、それでもとんでもない問題が派生した。

稼働檻の材質はアルミ製で、粘りがあり、通常の動物では十分な強度があるが、なにしろ160kgを越える巨体に対しては、何とも脆弱で、稼働檻を動かすギアーも、上部に一か所にしか付いていない。

ご機嫌斜めのライちゃんが、ドーンと体当たりすると、可動柵の左右と下方部分は、メリメリと壊れそうになり、今にもライちゃんが檻から飛び出しかねない。

また、柵の動きを止めようと、ライちゃんがデーンとでかいお尻を据えると、可動の為のハンドルはびくともせず、まったく回らない。

「下から突いて、立たせろ」「檻ですか」「アホー、ライちゃんだよ」「手でやるんですか」「木だよ、木」「手は2本あるから、1本無くなってもいいなら、手を突っ込め」

今様のイケメンだが、頼り無さそうなのが、分厚い平木を突っ込むと、バリ、バリ、バリ、固い厚木は、刷毛の様に砕けた。

「前回も、樫の棒を簡単に食いちぎったよな」

何とかライちゃんを攻め檻で挟みこんだが、上の空間がかなりあるので、今度は上に逃げようとする。

治療のための拘束など理解できない、麻酔前のライオンが、本気で抵抗するパワーは半端でない。

「上に逃げないよう、棒を差し込む」「もっと力を入れて・・」「先生危なーい、ピューマが近くに来てますよ」

振り向くと、ピューマのピーちゃんが、「なんだか大騒動だねー」と、柵越しにすぐ後ろに来ていた。

拘束に大騒動している間に、遮蔽にしていたコンパネから、完全に体がはみ出していた。

挟み込みも何とか一段落し、麻酔の前投薬を注射する。

ライオンはネコ科で、俗にビッグキャットとも言われ、その寿命は飼い猫と概ね類似の約20年で、動物園での最長記録は24歳ほどだが、野生では短命です。

今17歳半ということは、人の年齢に換算すると約86歳で、かなりの婆さん。

前回の手術は、冬季であった関係もあり、覚醒に時間を要し、さらに1年半ということは、人に例えれば6歳年を重ねているので、今のライちゃんは、歳とは思えぬ張りのある体をしているが、過酷な生活の過去があるので、麻酔の導入にはことのほか慎重を期した。

大内山動物園の、今の園長は2代目です。

釣りが趣味の山本清號さんは、20代前半だった40年ほど前、尾鷲方面によく出かけました。

当時は高速道路などなく、国道42号線という田舎道が、尾鷲に向かう唯一の幹線でした。

足しげく通ううちに、大内山の谷合に、私設動物園の様なものがあることを耳にしましたのです。 「田舎道の42号線から、少し離れた山間に動物園ね・・・」

知人から経営者の脇さんを紹介され、根っからの動物好きの山本さんは、早速施設を訪ね、驚きました。

「これはいかんなーー」「檻はさびたてボロボロ、雨覆いはテントだけか・・」「餌は残飯、みんな痩せて皮膚病だらけか・・・」

脇さんの本職は剥製師で、当時は野生動物に対する法的規制など、国の内外共に、有って無きが如しであった時代であったので、種趣味で集めた動物たちは、山で迷子の小熊、持て余した猛禽類など、訳有りだらけでしたが、それでもトラ、ライオン、チンパンジー、ピューマ、ダチョウ、白鳥など、多彩な動物が飼育されていました。

展示動物施設としては、あまりにもお粗末で、場所も幹線から少し離れた山間なので目立たなく、当然のこととして経営は成り立ちません。

山本さんは、寄付、餌の供与、自社社員のボランティア派遣など、献身的支援を開始しましたが、脇さんは、その後癌を患い亡くなり、身内に後継者がいないので、動物たちが処分される可能性が高まりました。

処分を回避するため、後始末を引き受けた今の山本園長は、高額の私財を投じて、清潔で十分なスペース、飼料の改善、医療体制の確立などに取り組んだのが、今の大内山動物園です。

前投薬が効いてきたライちゃんは、四肢がふらつき、目の焦点がうつろになったので、麻酔の導入に入る。

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「目の焦点が怪しくなってきたライちゃん」

犬や猫では、この状態に至れば、麻酔ガスをマスクで導入し、続いて気管チューブの挿管を行い、ガス麻酔へと進むが、猛獣では、半麻酔状態でも噛む力には変わりがないので、ガスマスク装着など、ほとんど不可能に近い。

少し体位を楽にしようと、攻め檻の柵を少し緩めたら、フラフラのはずのライちゃんは、突然ガバーと起き上がり、そして、今度は首を曲げた状態でドサーと倒れ込んだ。

首を伸ばし体位を整えなければ、気管が閉塞状態になり、窒息してしまう。

「おーい、そこの男」「後ろに回り、尾っぽを引っ張れーーー」名前を聞いていなかったので、名前など確認している暇などない。

猛獣に対する恐怖心など、その段階では吹っ飛び、檻に飛び込み、素手で組み伏せたいくらいのテンションに上昇し、この段階が一番危険です。

ライちゃんの前投薬の効果も、おおむね安定したので、高齢の婆さんにしては、張りのある立派なヒップに、本麻酔の注射を行う。

体位として、気道の確保に問題のない状態で、ライちゃんは概ね麻酔状態に入った。

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右手の爪の肉球への食い込みが激しく、化膿しかなりの出血で、その他左右の爪も過長し、損傷の原因になっていたので、問題の爪は可能な限り深く切断、相当の出血を伴うので、十分な止血処理を行った。

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術中、檻より引き出している腕は、まだかなりの腕力を残していたが、何しろ以前の経験があるので、保定は支障なく、問題爪の切除は全て完了した。

爪の再過長を完全に防止するには、爪の根元の指骨より切断し、皮膚を縫合することになるが、何しろ猛獣で、後後のケアーが十分に行えず、問題が生じる可能性が高いので、今回も深爪での切断にとどめた。

手術を無事完了し、呼吸促進剤を注射、右手をロープで少し懸垂し、呼吸の安定をはかる。

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「何しろお婆さんだから大変・・」「うちの看板娘ですからね・・」などと、園長と軽口を交わす余裕も出てきた。

今回は気温も温暖で、低体温に陥る心配もなく、麻酔よりの覚醒は、前回の冬季に比べ極めて良好だった。

あくる日の動物園からの電話では、「ほとんど歩けなかったのは嘘みたい、もう走り回ってますよ・・」。

めでたし、めでたし・・です。