タンポポ 野生タヌキの“受難”

2015.2

日本ペンクラブ会員 獣医学博士 鷲塚 貞長

名古屋市の南区には、東に隣接する、絞りで有名な有松より笠寺観音、そして呼続を通って宮の渡しに通ずる、江戸時代の旧東海道の名残があります。

有松より笠寺観音に通じる旧東海道は、そのまま車道になっていますが、周辺は田んぼで、歩道の通行人もまばらで、近くにゴミの焼却場があるなど、江戸期の幹線道路を思い浮かべる縁など、ほとんどありません。

“東海道は松並木”と唄われた、街道名物の松の木が、僅かに3本残っており、江戸時代の風情を、かろうじて今日に伝える松の木が3本とも、ほとんど通行人のいない歩道の、拡幅工事の為に、切り倒されてしまったのです。

何という歴史観の無い蛮行と、識者は悲憤慷慨しましたが、行政当局は涼しい顔で、まったく反省の色なしでした。

天平、飛鳥の絢爛たる文化を誇った奈良時代は、8世紀の初めで、その頃は、フランスも英国も国家など無く、アーサー王伝説の時代で、畑の真ん中に、パリの都が築かれたのは17世紀のことで、日本では、江戸幕府開幕の頃です。

しかしながら、中世に花咲いた、重厚な文化に誇りを持つ欧州の人々は、その後の大戦での爆撃で粉砕された、歴史的建造物はおろか、街並みまで、瓦礫と化した建物片を収集し、利用し、復元に心血を注いだのです。

理系の大学でも、歴史文化の教育に、かなりの時間を費やす、ヨーロッパの国々の知識人が、江戸期を象徴する東海道を、保存など眼中になく、跡形もなく破壊し、僅かに残る松の木を、いとも簡単に、無駄使い工事の犠牲にしたことを知ったら、絶句し、日本の国民性は、イスラム国以下であると思うことでしょう。

旧東海道は、現在では概ね国道1号線ですが、このあたりの国道1号線は、かなり南側を通っており、笠寺から呼続にいたる街道は、さびれた商店街や、小さな民家が、ごちゃごちゃと建ち並ぶ中を通過する小道で、江戸期を偲ぶも物など何もありません。

呼続には、緑地指定を受けた住宅街にしては、かなりの規模の森があります。

タンポポは、この森に住みついた両親の下に生まれた、3匹の子狸の1人娘として育ちましたが、この森を以外は、自然に近い環境など、周辺には微塵も無い人工的環境の中で、両親がどこから来てこの森に住みついたかは、知る由もありません。

親離れしてからのタンポポは、寺の本堂の床下を住処にしていました。

「今夜は寒いなーー」「背中も尾っぽも、痒い痒い」、若いメス狸のタンポポの、首から下の毛は、疥癬の感染で脱毛し、半分くらいしかありません。

2月の夜風は、毛を失い保温力を失った身には、とても辛いものでした。

「お腹すいたなーー」「いつもの市場の裏には、今日は食べものが、無いよーー」。「交差点の向こうに、何か袋が有るぞー」「行ってみようか」。

トコトコと、交差点を渡りだした時のことです、「キキキーー、ドーン」タンポポは、全速力で走ってきた車の、急ブレーキも間に合わず、撥ねられてしまいました。

車はそのまま走り去りましたが、これをたまたま目撃した赤尾さんは「あらー、ひき逃げだー、かわいそうに、ワンちゃんかなー」。

走り寄り抱き上げると、「これ狸じゃない」「この頃都会に、狸が時々見られる噂を聞いていたが、本当なんだー」。

自宅にはイヌを飼っている、動物好きの赤尾さんは、スマホで動物の救急病院を検索し、名古屋市獣医師会が開設している、夜間動物救急診療所に、重傷で身動きのできないタヌキを、抱きかかえて駆け込みました。

「撥ねられましたか」「かなりの重症ですね」「意識がはっきりしていれば、怪我をして痛い時は、平素はおとなしい飼い猫でも、本気で噛みつきますよ」「ましてや野生の狸、怪我が無くてよかったですね」「あぶない、あぶない」。

「疥癬にも感染していますね」「左足が、グラグラなのでレントゲンを撮ります」担当の   獣医師は、手際よく診察してくれました。

「骨盤の、腸骨と坐骨が粉砕骨折です」「骨盤腔に、大腿骨頭部がかなり入り込んでいるので、このまま固めれば、排便や分娩に支障がでると思います」「正常に復すには、かなり大掛かりの手術が必要ですね」「レントゲンで診た限りでは、幸い脊椎損傷がありませんので、手術がうまくいけば正常歩行は可能になるでしょう」。

近年、道路工事を筆頭とした、著しい環境破壊や、過疎化の急進による、里山の消失、さらには、度を越した銃規制の為の、ハンターの減少などで、野生動物が都会地に出没することが多くなりました。

狸は、イヌ科の動物で、限りなく犬に近く、昔から村落の近くに生息する習性があり、少し知能の足りない犬より、遥かに利発です。

発情は年1回、妊娠期間は60~65日、平均4~6頭を出産(最多12頭の記録あり)、授乳期間は約30日、生後10ヶ月ほどで成獣になり、寿命は10年ほどですが、飼育されると、16~17年生きます。

食べ物は雑食で、ネズミ、カエル、鳥類、卵、魚類、昆虫、柿、ビワなど、早い話が何でも食べます。

「とりあえず応急処置は済ませましたが、ここは動物病院の診療時間終了後の、午後9時から夜間の2時までの、救急外来専門病院で、症例は、翌朝主治医に引継ぎます」「野生動物だから、主治医はいませんよね」「そーですよねーー」「後先考えず、ともかく救命にと連れて来たのです・・・」。

保護者は、市外在住の人なので、その場はやむなく預かり、名古屋市獣医師会の会員で、手術や疥癬の治療等を含め、後の一切は、数日の餌代程度で、無償で面倒を見てくれる、動物病院を公募しました。

ケージに入れたままで2日が経ち、食欲も皆無ですが、会員からの反応はまったくありません。

事務局も困り果てていたところを、W獣医科病院から、引き受け了承の連絡が入ったのです。

この獣医科病院は、犬猫などの、コンパニオンアニマルの診療が主流ですが、エキゾチック動物の診察も多く、また、三重県の大きな個人動物園の、ライオンの手術や、トラの死因の主な原因である、消化器障害のコントロール、さらには、原因不明で死亡したトラの解剖で、食道ガンが原因であったことを診断するなど、野生動物の診療経験が豊富でした。

「野生にしては、おとなしいね」「交通事故で骨盤損傷がひどい時は、胸も打撲している場合が多いので、骨盤の手術は、全身状態が落ち着いてからにしよう」「まずは、疥癬の治療から始めようか」。

狸程度の大きさの動物が、車に撥ねられて骨折した場合は、胸部も強打し、心筋炎を起こしていることが多く、全身麻酔は十分に慎重を期さなければ、麻酔死することがあります。
事故から3日目に入院し、治療を開始したタンポポは、廃絶していた食欲が、翌日から回復したのです。

イヌ用缶詰よりネコ缶が好きの、なかなかのグルメで、ジャーキーを与える時、鼻を触っても、抵抗しなくなりましたが、ときどきは「シャー」と威嚇し、野生であることの証を示しました。

入院10日目になり、手術可能な状態に回復し、タンポポは、骨盤の粉砕骨折の手術を受けることになりました。

「変だな、今日は、昼になってもごはんくれないよ」、午後1時になり、お尻に鎮静剤と抗生物質の注射をうたれ、「チクーとしたぞ」「「なんだか急に眠たくなってきた」「ご飯食べてないせいかな・・」。

W先生の病院では、ノラちゃんや地域ネコの、避妊・去勢を行う、SCR協会(Street Cat Resucue Society)を主催していますので、扱いの難しい動物の麻酔導入は、馴れたものです。

鎮静剤の注射で、ヘロヘロになったところを、バスタオルに包まれ、手術台で麻酔ガスをマスクで吸わされ、意識が概ね無くなると、気管チューブを挿管しガス麻酔開始、同時に、心電計、血液中酸素濃度、呼気のCO2濃度、麻酔濃度、呼吸状態を示すカプノグラムなどの、術中の監視装置をつけられる。

骨折により骨盤腔に入り込んだ、腸骨を引き戻し、骨折部を金属で固定、坐骨部分は粉砕状態で固定が困難なのと、腸骨骨折部分の固定で、骨盤腔の確保が出来たので、縫合し、手術は約1時間で終了しました。

ガス麻酔を切り、意識が戻り出したところで、気管チューブを抜管すると、タンポポは5分くらいで、お座りをしました。

ちょうどその頃、救助者の赤尾さんが、豊橋市から駆け付けてきました。「今、手術は無事終わりました」「あーよかった、よかった」「心配で、心配で」。

鎮静から麻酔、手術、そして覚醒までの一部始終は、名古屋テレビが取材、「骨盤は何日くらいで固まりますか」「40日くらいでしょう」「包帯を咬んで、取りませんか」「エリザベス・カラーをつけますが、きわめて要注意です」「健康を取り戻したらどうしますか」「三重県の私設動物園を予定していたのですが、満杯で・・・」「病気入院中は、何の問題もありません」「野生動物の所有権は、国だそうです」「ハンターには年間16500円の、高い狩猟税を課しています」「ハンターはその他に、市、県、全国と3重の猟友会の会費を取られ、手数料など入れると数万円の負担です」「ハンターは、今、20万人ほどなので、1万6千500円×20万人は、大変な金額ですよ」「33億円ですね」「巨額ですが、何に使っているのでしょう」「野生動物の保護への使途とは思えませんしね」。

救出者の赤尾さんは、今後同じことが生じる可能性が有るので、県の担当者に問い合わせました。

「都会で負傷した野生動物を保護した場合、例えば車の往来の激しい交差点で轢かれている時などは、どうすればいいのですか」「野生動物ですから、自然に戻すのが原則で、保護した場所に帰してください」「えー、交通事故に遭い、怪我をしている野生動物を保護して、また交差点に戻すのですか」「それなら、森とか・・」「そんなもの近くにありませんよ」「それなら河川敷とか」「怪我しているんですよ」「動物病院で診てもらった治療費は、国の所有物なら、当然国が負担するのですね」「そのような予算はありません」「所有権だけ主張し、義務を果たさないのは納得できない」「こちらは県ですからお答えできません」「生命尊重など綺麗ごとを並べ、こんな実態では、子供の情操教育に、大変な悪影響とは思いませんか」「・・・・・・・」。

平成14年ごろ、名古屋市獣医師会へ、負傷野生動物が病院に持ち込まれ、それを診療し、入院させるには、狩猟法に基づく鳥獣捕獲免許申請をして下さいとの、県より知らせがありました。

ある会員が「生命を助けるのに、殺すことが唯一の目的の、狩猟法はおかしいじゃないか」と、問い合わせたところ「それしか関連法規が無いので、お願いします」との答えが返ってきたそうです。

100人余の会員の内、この得体の知れない県よりの申し出に応えた、律儀な会員はたった8人で、免許期間は1年で、失効すればただちに返納することになっていましたが、その後、県より何の連絡もなく「あれはいったい何だったの」と、あまりにも場当たり的な、低レベルの要請に、広い心で応じた会員の怒りをかったそうです。

狸は古来より、村落の近くに生息することを好む生き物で、少し知能の足りないイヌより遥かに賢く、又、飼育すれば人馴れする愛らしい存在です。

村落の近くを好むと言っても、お江戸日本橋に出没するのでなく、それはあくまでも、田舎の話ですが、現在では、いわゆるお江戸日本橋に出没しているのです。

なぜでしょう。

所有権を有する国家が、保護に関する義務らしい義務を果たさず、無秩序で不要不急のインフラ工事による環境破壊が進み、狸の生息に適した環境が急減、過疎化に伴う里山の喪失、ハンター人口の高齢化と急減などが考えられます。

国家の財産で有る、在来種の野生動物(特定外来種ではない)の、捕獲に対する規制はあっても、傷ついた在来野生動物の保護に関しては、明確な規制は存在せず、その証拠は「自然の物であるから、自然に戻せ」など、歯切れの悪い、答弁が物語っており、明確な法規制があれば、パブリック・サーバントは、「違法です」と、明言するでしょう。

権利主張だけで、義務を果たしていない国には、善意で保護し、その救命に貢献している人たちに対し、とやかく言う資格などありません。

さて、自然の回帰ですが、現在の我が国のインフラは、もう十分すぎるほど整っていますので、今後の課題は、短い年度で急激に大量に作った道路・橋などが、劣化の時期を迎えてしまい、これらの修復には巨額が必要になっています。

長年の土建屋行政で膨らんだ土建人口を、一度に切り捨てて、路頭に迷わすことも、出来ませんので、インフラで必要不可欠のもの以外の撤去作業、必要だが、劣化が始まった物の修復などに就労し、徐々に、絶対的に必要な土建屋人口に縮小すべきです。

当面の対策としては、野生動物の保護に、きわめて効率の悪い行政窓口は縮小し、狩猟税を、およそ役立っているとは思えない、行政定年公務員の、再就職団体への支弁などの無駄使いは止め、全国の動物病院の中から、野生動物の診療能力の有る病院への、医療費の直接支弁に充当するなどは、明日からでも実施できる具体的方策と思えます。

タンポポは、大きなオペを受けたにもかかわらず、その日の夕刻には、何事もなかった様な顔をして、旺盛な食欲を示し、野生動物の逞しさを見せてくれました。

タンポポというネーミングは、W獣医科病院の看護師のお姉さんたちが、その風貌・風情のイメージに由来します。

野生動物が、大都会の交差点で車に轢かれるなど、明日の人類の姿が予言され、不気味だとは思いませんか。